魚を迎える前に必ず空回しを
  水槽を立ち上げるとき、つい「早く魚を入れたい!」と思ってしまう気持ち、わかります。
でも、ちょっとだけ立ち止まってフィルターの空回しをしてみると、不思議と安心感が生まれるものなんですね。
  これは、水漏れや機器トラブルを事前に防ぎ、水質を安定させる大切な準備。長く美しいアクアリウムの物語を始める前の、大切なひと手間なんです。
今回は、そんな空回しについて、柔しくストーリーで紹介したいと思います。
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失敗を積み重ねたからこそわかる、その重要性
昼下がりのキャンパス
これは2000年代とフィクションが織りなす不思議な世界の物語。
  昼下がりの光が、キャンパスの石畳をやわらかく照らしていた。
  サークル棟の周りには、学生食堂の混雑を避けて昼食を広げる学生たちの姿がちらほら見える。
  若人の賑やかな笑い声も、ここではどこか遠くの出来事のように感じられる。ゆっくりとした風が吹き抜け、木陰に置かれたベンチの影を少しずつ伸ばしていった。
「やぁ、待った?」
声の方を見ると、ロゼッタが手を振っていた。お師匠様であり、他学科の友人でもある。そんな彼女は白いブラウスの袖を軽くまくり、光を受けて少し眩しそうに目を細めている。
  「急にどうしたんですか?」
  「実はね、聞いた話なんだけどね。あの店のサタンプレコ、まだ売れ残ってるらしいよ」
思わず息をのんだ。あのサタンプレコが、まだ。
「そんなことが……?」
ロゼッタは肩をすくめ、少しおどけたように笑うと、バルコニーのベンチにふわりと腰をかけた。
  「そりゃあだって、最近はプラチナロイヤルのブームだからねぇ」
  (20年前の話です)
わたしはつい笑みがこぼれてしまう。純白のラインを持つロイヤルプレコ。たしかに美しいが……。それよりも、深い緑に包まれたグリーンロイヤル、いわゆる“スイカ”の方が、色味と相性がマッチしてずっと好みだった。
  「そうなんですね……。ならそろそろ、サタンプレコを迎えに行こうと思うのですが……」
  「そうだね♪ 器具も揃ったしね」
「はい。流木もろとも、今の水槽からあの子たちを一緒に引っ越しさせようかと」
そう言うと、ロゼッタは嬉しそうに頷いた。
「うんうん。そうだね、そうだねぇ」
そこまで口が動いたところで、彼女はポンと手を打った。
「あっ! そうそう。ところで――もう水は入れたの?」
その問いに、わたしは少し気まずく笑った。
  「いや、それがまだ……」
  「えっ!? まだって?」
ロゼッタの声が、思ったより大きく響いた。
「だって、硝化細菌はもうフィルターにいますから。無理に空回ししなくてもいいかなって……」
  自分でも少し苦しい言い訳だと思う。
  けれど、お師匠様はすぐに否定はせず、少しだけ視線を下に向けてから言った。
「なるほどね。でも、良かれと思って言うけど、キミの水槽の場合は、空回しした方がいいと思うんだ」
  「でも……?」
  「いや、硝化細菌の話じゃなくて――もっと別の理由でね」
目に淡い陽光がギラリと反射していた。胸の奥に、奇妙な不安が芽生えた午後のひと時であった。
放課後の水音
  放課後の光は、どこか穏やかで、校舎の影を長く伸ばしていた。
  サークル棟での別れ際に
「じゃあ、善は急げということでね♪」
  と言われてから数時間後。
  玄関のチャイムが鳴り、階段を駆け下りて扉を開けると、彼女は軽く息を弾ませながら立っていた。
  夏至間近ということもあって、本来なら夕方だというのに空はまだ青く透き通っている。眩い光を受けると白い肌が際立ち、艶やかな黒髪とコントラストを生み出す。紅潮した頬に、潤んだ唇。そんな女性が玄関に立っている。他の男性が見たらうらやむ光景だろう。
  しかし、彼女は言うのだ。
「んふふ、それじゃあキミの水槽を、ボクに一番乗りで触らせてくれるのかな?」
少々荒い息遣いでニヤニヤと口角を上げながら、手に持ったタオルで額にかいた汗を拭うその姿――完全に一人のオタクそのものである。生物オタクならともかく、アクアリストと名乗る程度ではドン引き間違いなしの、いわゆる完全変態なのだ。
そんなうら若き女性を苦笑しつつ中に招くと、「まずは水を入れよう♪」と言って階段を駆け上がっていった。
しかし、こちらとて迎え撃つ準備はできている。庭の蛇口からホースを引き、すでに2階まで通してあるのだ。となれば、あとはシャワーヘッドのレバーを引くだけ。
「では早速、水を入れていきますね?」
と、カチリと引くと、水槽の中にきらきらと光る水滴が飛び散り、新しい世界を満たしていく。わたしもお師匠も腕を組みながら、ぼんやりとその光景をいつまでも見つめていた……。
が、次の瞬間、彼女ははっと目を見開いた。
  「おっと、いけない、見惚れてたよ! もう、始まってるんだった」
  「え? なんのですか?」
「空回しをした方が良いって話だよね?」
わたしが首を傾げると、彼女は人差し指でツンツンと突き、いつもの得意げな顔で熱心に語り出した。
  「まずね、新しい水槽なら、水を入れて水漏れがないか確認しなきゃね?」
  「一応、水槽を洗ったときにシャワーを当てて軽く確かめたんですが……」
「いやいや。シャワーの水圧と、水を張ったときの圧力はまったく違うからね。なるべく、本番に近い状態でチェックしておきたいところだね」
ロゼッタは前かがみになりながら、水槽の片隅を指で示した。
  「特にオールガラス水槽は、ガラスとガラスのつなぎ目から漏れることがある。ちゃんと四隅を確認しよう♪」
  「え゛、裏側もですか? 右奥と左奥は壁が近くてのぞきづらいのですが……」
  「あはは! 頭を突っ込まなくても大丈夫。指で軽くなでれば、すぐにわかるよ」
  「指?」
それでは……と、水槽の奥に手を伸ばそうとしたのだが、お師匠様はじっとわたしの目を見つめてから首を横に振る。
  「なんでですか?」
  「今、水を触ったばかりでしょ? そういうびしょ濡れの手じゃなくて、ちゃんと拭いてからね。感触で確かめるんだから」
「あ、なるほど」
タオルで手を拭き、今度こそガラスの隅をなぞる。スルスルと乾いた感触がある。
「試しにこっちに水滴をつけてみてから、触ってごらん?」
  こちらも同じような感触。
  が、上から下までなで終わった人差し指を親指で触れると、液体がぴちゃりとした感触がある。人の手というのはとても敏感だと聞いていたが、こんな少量の漏水が分かるだなんて……。
  「なるほど。こういう方法なら、ポタポタと漏水しても気が付きますね」
  「納得いただけたかな? それに実は別の方法もあるんだよ?」
と、彼女がハンドバッグから取り出したのは1本のマスキングテープ。随分と可愛らしい柄が描いてあるが……。
  「こういった取り外し可能なテープで、水位に印をつけておくんだ。そうすれば、少しずつ減っていないか確認できる。もっとも、ただ蒸発してるだけってこともあるけどね。
  気にしすぎは禁物だよ?」
  ――なるほど。と、わたしはマスキングテープを手に取り、水槽の縁に貼ろうとした。
  その瞬間。
「あ! まだまだ!」
ロゼッタが慌てて声を上げた。
  「え?」
  「だって、外部フィルターの呼び水してないでしょ? そのあと足し水するんだから、絶対に水位が変わるじゃない?」
  「あぁ! 今つけたら意味ないということですね?」
  「そういうこと。テープは作業が全部終わってからつけてね?」
呼び水と記憶の音
「それじゃあ、始めるよ」
  穏やかな声の裏には、どこか儀式の始まりのような緊張感が漂っていた。
  彼女は厳かに排水パイプを手に取り、中を軽く覗き込んだあと、それを口元に当てた。
次の瞬間、スーッと音を立てて吸い込む。水が勢いよくパイプの中を駆け上がり、重力に引かれて一気に落ちていく。静かな部屋に「シュルシュル」と水が落ちる音が響いた。
  外部フィルターへの呼び水。だが、その光景にはどこか緊迫感があった。
  なぜなら――
「つい最近、配管ミスをしたばかりでしょ?」
ロゼッタが口元をぬぐいながら、にやりと笑い茶化した。
「やめてくださいよ。あんな恥ずかしいミス、思い出したくもありません」
思い出しただけで、顔が熱くなる。あのときは吸水と排水を逆につないでしまい、排水パイプから水が出ないと大騒ぎしたのだ。
「まぁまぁ、そう言わずに」
彼女は笑いながら、ショートヘアを手櫛で整えた。
「アクアリウムってね、経験則に従った方がうまくいくことが多いんだ。この前の失敗は、きっと今後の糧になるよ。だから、気を落とさないで」
その口調は穏やかだったけれど、芯のある声だったので、思わずわたしはうなずいた。
  「そうなのかもしれませんけど……でも、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしいです」
  「ふふ、わかるよ。しばらくはフラッシュバックするだろうね。でも、こうして実際に水を流してみないと、分からないこともあるからさ」
  たしかにそうだ。
  そうなのだが……。
「――ほら、そっちのフルーバルもやってみて?」
  お師匠様は机の下に置かれたフルーバル304を指さした。
  終売した機種だが、ほぼ新品でまだまだ頑張れるフィルターだ。わたしは命を吹き込むように、慎重にポンプレバーを握り、上下に動かす。シュコ、シュコと数度空気が抜ける音がしたあと、やがて内部のホースが少し震え、「ザバーッ」と勢いよく水が流れ出した。
  そして、電源ON。
  ラッパ状の排水口から太い水流が生まれる。
「おお……!」
  火入れならぬ、水入れである。
  資本主義に見捨てられたフィルターだが、今こうしてわが家で産声を上げたのだ。
  しかし、感傷に浸っている暇などないと言わんばかりにロゼッタは指摘をする。
  「そういえば昔、Oリングの取り付けを忘れて大変なことになったよね?」
  「え?」
  「ほら? パワーヘッドから水が漏れてないかい?」
  「わあっ!」
慌ててパワーヘッドを見る。幸いなことに今回は水が吹き出していないようだ。安堵のため息を漏らすと、彼女はわたしを見て笑った。
「ははは! でもね、今やってることは“ミスの発見”でもあるんだよ。魚を入れる前に、しらみつぶしにチェックしておきたいでしょ?」
  確かにその通りだ。
  だが、その確信めいた経験則と一緒に、わたしの痛い思い出をいちいち掘り起こされるのはいかがなものか。
しかし、彼女は続ける。
  「外部フィルターで漏水が起きると、どうなると思う?」
  「そりゃあ……水が抜けるんですよね?」
  「もちろんだとも。それで、どこまでだと思う?」
  「それは……」
  コホンと咳払いをしてから、髪をかき上げ、じっとわたしの目を見つめた。
  そして、答えが出てこないと分かると、ゆっくりと答え言う。
「吸水パイプの下端まで。サイフォンの原理が働いているから、そこまで水が抜けるんだ。構造上仕方ないことだけど、60cm規格水槽だったら優に50Lはあるわけだ。となれば、危険でしょう?」
ロゼッタは手元の2213のホースを指でなぞりながら、淡々と説明する。その横顔は真剣で、いつもの穏やかさとは違う光を帯びていた。
  「それにね、気を付けてほしいこともある」
  「はい?」
「一度だけあったんだけど――Oリングに傷が入っていたことがあったんだ」
「Oリングに……傷?」
聞き返すと、彼女は小さく頷いた。
「そうなんだ。ほんの小さな傷だったんだけど、そこからポタポタと水が漏れてしまったんだ。そういった場合、水量が少ないから気づきにくいからね。蒸発と区別がつかないこともある」
  「それで、あのテープを?」
  「その通り」
ロゼッタは微笑みながら、水槽の縁に手を伸ばした。
「漏水箇所は、パワーヘッドだけじゃない。ダブルタップの接続部、パイプとホースのつなぎ目……いくらでも起こり得る。だからね――」
  そう言いながら、彼女は手にしていたマスキングテープを少し引き出し、
  現在の水位の高さにぺたりと貼りつけた。
  その仕草があまりに丁寧で、まるで印を結ぶようにも見えた。
「必ず二、三日は空回しして様子を見てね。そして焦らず、ゆっくりチェックしてみてね?」
夜の静けさと点る灯り
「さて、実はこれで終わりじゃないんだ」
  ロゼッタが両手を腰に当て、静かに言った。
  水槽の中では、さっきまで泡立っていた水音が落ち着き、透明な静けさが戻っている。
「ついでにヒーターもチェックしておきたいね」
そう言われて、わたしは頷き、机の下から取り出した。コードが少し絡まっていて、ほぐしながら差し出すと、ロゼッタはその二つの器具を見た瞬間、わずかに眉をひそめた。
  「はぁ~……結局このタイプを買っちゃったんだね?」
  「だって、気になったので」
少しむっとしたような表情を見せた彼女は、しかしすぐに目を閉じて首を横に振り、肩を落とした。
「もう、そういうところが……」
けれどその声の奥には、呆れと同じくらいの優しさが混じっていた。
  「キミも立派な水槽オタクの仲間入りというわけだ」
  「……」
「まぁいいさ。水も張って、フィルターも動いてるんだ。ヒーターのチェックもしておかないとね?」
  彼女に促され、わたしはヒーターをそっと水槽に沈めた。ヒーターの赤いランプがぽっと灯ると、水の中に陽炎が生まれる。問題ないようだ。
  安堵しつつ、ふと時計を見ると、彼女が来てからすでに一時間以上が経っていた。
  「なるほど、たしかにぶっつけ本番で壊れてたら大変ですね」
  「そういうこと。特に不慣れなうちは、十分に時間を取ったほうがいいね」
ロゼッタは満足そうに頷いた。
  「それと、ほら? 水中ポンプもあるでしょ? あれもテストしておくといいよ」
  「そういえば……」
「とにかく、こういう地味な作業は、後で効いてくるんだ」
ロゼッタの声は柔らかく、静かな夜の空気に溶けていく。
  きっと、魚たちの引っ越し当日にこんな準備をしていたら、ずいぶん時間を食っていたはずだろう。
  やはり、前もってできることは前もってやっておくに限るようだ。
まとめ
水槽を立ち上げるとき、「フィルターの空回しって本当に必要なの?」と思う方は多いかもしれません。見た目には変化がなく、つい魚を早く迎えたくなる気持ちも理解できます。でも実は、この「空回し」こそが、あとでトラブルを防ぐための大切なステップです。
  空回しとは、水槽に水を張り、フィルターやヒーターなどの機器を動かしながら、しばらく魚を入れずに様子を見る期間のこと。新しく設置した器具の動作確認を兼ねて、水漏れや電源トラブルがないかチェックできます。
特に外部フィルターでは、Oリングの不具合やホースの接続部の緩みなど、わずかな不備が後々の水漏れにつながることもあります。
さらに、空回しを行うことで水の循環が安定し、フィルター内のろ材に硝化細菌が定着しやすくなります。これにより、アンモニアや亜硝酸などの有害物質が分解され、水質が安定して魚たちが暮らしやすい環境へと整っていきます。
一見地味な工程ですが、丁寧に行うことが、長く美しいアクアリウムを育てる第一歩なのです。



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